親が死ぬ時何を感じたかって話
昨年はしっかりライブ参戦したのですが、ライブに参戦したら感想を書く習慣が抜けてました。
どのライブもよかったね!()
普段更新していないこのブログは備忘録みたいな部分もありまして、せっかくだから特別な時はアイドルのこと以外も書いてみようかなって。
「母親が死ぬ時何を感じたかって話」
昨日母親が死んじまいまして。死因は肺炎。
そこに至るには複雑なデスコンボがあるわけですが、最後は漢字二文字で「肺炎」ですって。
ポイントゲッターだよな肺炎ってさ。
認知症とか骨折がパスを繋げて結局肺炎がゴールを決めるんだなって。
回想
母親は昨年の5月に圧迫骨折をして、6月頃から「レビー小体型認知症」の症状が出始めました。
俺は元々医療業界にいたので
「あ、レビーだ」
って確信したのだけど、そもそもレビー小体型ってなぁに?って人はググってみて。
まぁ手足の震えやこわばり(パーキンソン病みたいなやつね)、幻視幻聴あたりが主な特徴になるんですかね。
発症後の余命はアルツハイマー型より短いことも特徴です。
だからと言ってまさか半年で逝っちまうとは誰も思わないわけですがね。
母は認知症になった夏に転倒し大腿骨を骨折しました。これから専門機関で治療を開始する矢先に、先の見えない骨折からの入院をかましてしまい、認知症の治療は後回しに。
入院前は幻視がとにかく酷く
・体から虫が出てくる
・ご飯に虫が沸いてる(米粒は全部虫)
・菌が宙を舞っている(そりゃそうだろ)
とにかく虫でした。
もう「虫」なんて生温い、「蟲」ですな。
母博士(認知症)によると屋根裏にハクビシンが住み着いていてハクビシンの排泄物に虫があつまり、その虫が我が家を乗っ取ろうとしている。私は屋根をぶっ壊す。との事でした。博識です。
食卓は消毒液で埋め尽くされました。
あとハイターみたいな臭いもしたから四六時中「除菌」をしていたみたいです。
どんなに安静にしろと言ってもダメなんですね。
だって宙には悪い菌が舞っていて、家にいれば虫が四方八方から攻めてくるんですから。(屋根裏にはハクビシンもいるっ)
母がベルセルクのガッツくらい強かったら話は別なんだけど、現実はそう甘くありませんでした。(現実ではねぇけど)
結果、戦い続けた挙句転倒し骨折したのです。
認知症の治療もままならない中、足のリハビリが始まりました。
8月半ばから11月に入るまでの2ヶ月半、リハビリ入院をするのですが、この時期は
・嫌でもリハビリをしなくてはいけない
・人との接触,コミュニケーションが毎日ある
・リハビリが決まった時間にあるから、時間を意識する
・病室が白いからなのか虫や菌の話をしなくなる
みたいな感じでしょうか。
お見舞いに言ってもハキハキと喋り、色々昔話をしていましたし、リハビリの工程表を見て、もう少しで終わるって喜んでいたのを覚えています。そして最後にまともに話せたのはこの時期まででした。
11月、リハビリが終わり、施設に入りました。施設は一人部屋で、複数人の部屋は埋まっていました。一人部屋でまた新しい環境で孤独との闘いだったと思います。ここから病状は信じられないくらい悪化します。
グラフにしたら崖ができちゃうくらいです。
一度脱線します。
施設での詳細は部分的にしか語りませんが、施設は本当に本当に選定が大事です。
選ぶ暇なんてないかもしれません。ケアマネジャーも空いてる施設を必死に探してくれています。
しかし、結果的に施設の対応はクソムーブかましすぎて我々からしたら
「その程度かよぉ!クソがぁ!」
と言いたくなる現実でした。
母を誰よりも愛してくれた叔母は
「こっちは金払ってんだ!不満は全部口に出してやるぜ。ゼハハハハ」
と、施設の対応を次々に指摘していました。
職員は怯えてました。
ひとつ、勉強になりました。
施設の為にもクレームは言いましょう。(適度にだからな)
施設にも勿論感謝してますよ。
話を戻します。
とにかく施設に入ってからご飯は食べないし、歩行は出来ないし、再び「蟲」が姿を現しました。
それだけではなく「幻聴」も強くなっていったと思います。
母と施設で再会した時、息子としては扱ってくれませんでした。最近知り合った私たちには見えない誰かが
「息子も旦那も全員死んだ」
って教えてくれたそうです。
親切にどうもなハゲ。
「だからあなたもここにいては危険だから早く逃げて」
と言われました。
基本そんな事を淡々と話すのですが、時々苦しい表情に変わりに涙を流す時がありました。それが本来の母親の姿だと確信はしたけど、その表情はすぐに引っ込んでしまいましたけど。
悔しくて悔しくて帰りの車でボロボロ泣いたのを覚えてます。
車にワイパーはあっても目にワイパーはありませんでした。
その後、病院に行くと鬱病の症状も見受けられると診断されました。
嫌なものを見過ぎで鬱になったのか、時折みせる本当の自分が封じ込められて鬱になったのか。真相はもう活動を止めた脳の中ですな☆
その後も食べ物を受け付けない母は、今年に入り極度の脱水から緊急搬送されました。
医者「血液検査の結果ですが、私が見た中で過去ダントツで最悪の結果です」ドンっ!
医者からお墨付きをもらいました。
こうなると血液の状態を急激に回復させるのも危険だそうで、ちびちび点滴を打つしかないみたいです。
「いつ死んでもおかしくないよ」
と言われたのが先週の話。漫画やアニメだったら「To Be Continued」って右下に出る時ですな。
そこからはもう喋ることが出来ない母vs家族なのですし、こちらの言葉を理解しているかどうかもわからない状態でしたが、問いかけには頷いてくれてるように思えました。
嘘でも嬉しかったです。頷いてもらえる事がこんなに幸せなことだとは思いませんでした。
「いぇーい」って言っても頷いてました。可愛い。
現在
さぁ、間もなく死ぬ母親を前に自分が何を感じたかを最後に話したいと思います。
回想が長くてすいませんでした。
間も無く事切れる母の全身を見た直球の感想は
「この人から産まれたんだ俺」
でした。
そんなものは遥か昔に理解している俺ですが、小さくなった母親を見て素直にそう感じました。
「こんなちいせぇ母親から生まれたのか?」
って意味と
「あなたが産んでくれたんだ」
って意味が5:5でブレンドされてるように思います。
もう一つ、思ったことは、これは当たり前かもしれませんが
「意外と母親の身体って知らないよな」
でした。
頭髪も結構抜け落ちて頭の形がくっきりわかるのですが、普段スキンヘッドの母親じゃなかったんで生まれて初めて頭の形を知ったんです。
死ぬ間際に初めて知りました。
意外とマジマジと見つめてみて初めて知る部分、再認識する部分がとても多いんですよね。
皆さんは最後に母親と手を繋いだのはいつですか?手の感触とか覚えていますか?
シミが増えたけどやたら綺麗な部位はどこですか?
って聞いても「知るか」ってなるでしょう。大抵の人は。
まずそんな距離で親と接しないもんね。だからこそ新鮮だったというか。
「デコ綺麗すぎ」って思いました。
なんか感謝とか悲しいとかよりも
「あーそうだったなぁ、あーそうなんだぁ」
みたいな感情が勝りましたね。若干。
最後の時も家族は名前を呼んでいましたが、僕はどちらかと言うと手を握って顔を見て、表示が「0」の心拍数を見つめていました。
また動くんじゃないかって。まぁ、私はそういう人間なんでしょうな。
以上
最後に母親の最期を迎えるにあたり、腑に落ちた出来事を。
亡くなる30分前、おむつ交換を済ませスッキリしたであろう母親。
俺たち家族は気が緩み
「母親から幼少期に受けた理不尽な仕打ち」
を暴露し笑っていました。
俺は母親に
「ここまで言われて悔しくないかい。起き上がって全員ぶっ飛ばしたほうがいいよ」
と母親に言って更に笑いが起こったのも束の間
母親は死んだ。
多分、体もスッキリしたし、俺たちもスッキリしたから死んだのかもしれない。
人が死ぬ時、最後まで機能しているのは聴覚と聞いたことがある。
それが本当ならば、内容はどうあれ家族3人の笑い声がその耳に届いていたのならば、もう悔いはありません。
安らかに。